僕は医者になって最初の7年間を、24時間体制の救急病院で過ごしてきた。救命救急というとドラマやドキュメンタリ−番組で御覧になった方はすでに御存知のように、交通外傷、熱傷、自殺、心筋梗塞、脳梗塞といった急を要する病気や事故の方々が次々と来られ、緊張の場面の連続....... というようなイメ−ジが一般に持たれている。もちろんそういった雰囲気は当然あるのだが、時にはこちらの腰がくだけてしまうようなトホホな患者さんも結構いらっしゃる。
もう数年前の話。その当時勤めていた病院は内科の医者と外科系の医者がペアを組んで夜間の当直をしていた。その病院の近くに某大学があり、そこの学生さんがよく受診に訪れていたが、今回のエッセイの主人公はその学生さんである。
ある夜の当直の出来事である。10時頃に病院の救急受付に、1人の若い男性がやってきた。その病院では通常、歩いて来られる患者さんは受付で事務の方が症状を尋ねることになっていたが、その男性は『話したくありません。医者に直接言います。』の一点張りだったとか。
看護婦さんとしても、内科受診か外科受診かを決定せねばならず、症状を聞こうとしたが本人は頑として話さなかったそうだ。発熱はなし、血圧正常、一見痛みはなさそうで全身状態は良好ですが症状はわかりません、といった看護婦さんからの報告で内科の当直医が呼ばれることになった。
医者の常識で、診察の時には主訴といって、患者さんの一番の訴えをまずカルテに記入し、次に現病歴といって、その症状が起こるまでのいきさつを要量よくカルテに記入しなければならない。だから、まず診察室での医者の一言は、どうなさいました?ってなるわけ。
さてこの男性。看護婦さんを退室させて下さいとお願いした後、こそっと医者に『実は肛門にニンジンが入ったまま取れなくなってしまいました。』
えっ、と驚きつつ医者はカルテの病名らんに『直腸内異物』と記入した。いきさつはともあれ、もしニンジンが直腸の壁を傷つけていたら大変だ。早速、患者さんをベッドに横たわらせ、肛門鏡(直腸の中をのぞける道具。痔の診察の時によく使用する。)で見てみると、あった、あった、あった!ニンジンが頭をこっちに向けて鎮座ましまする。よしっ、と鉗子(つまむ道具)を持ち出し、つかんで引っ張り出そうとするが、頭が手前なので引っ掛かるどころか、逆に奥に進んでしまう。
うわ、こりゃ内科の手には負えんワイ。外科を呼ぼう!ということで、夕方までかかった手術を終えて疲れ切った顔の外科医が登場。腰椎麻酔をかけて取りましょう(腰から下に麻酔がかかると肛門の筋肉が緩むし、痛みを感じない。しかも意識があるので都合がいい。)ということになったが、ニンジンはよほど居心地がよいとみえて一向に出てこない。
半分キレかかった外科医は男性を入院させた後、頭をかかえていた。『明日は開腹手術でニンジンを取り出さなくてはならないかも。』と苦悩の表情でぽつり。
翌日奇跡は起きた。病室に男性を回診に行くと『先生、例の物は便と一緒に出ました!』と嬉しそうな顔。その言葉だけでも腰がくだけるが、傑作なのはその後の話である。
カルテを見直すと、主訴のらんは埋まっているが、現病歴のらんは空白のままだ。患者さんから、いきさつを聞いてカルテに記入しなければならない。別室に患者さんを呼び、どうしてあんなことになったのかを尋ねた。(だいたいわかるけど。)
『実はお風呂上がりに裸のまんまでソファ−にどかっと勢い良く座ったんですが、たまたまその時ソファ−の上にニンジンが置いてあって、座った時にそのまま肛門に入ってしまったんです。』
それからしばらくの間、沈黙の時間が流れたことを付け加えておく。昨日の当直の外科医はその話を聞くと笑うどころか本当にキレてしまった。
皆さんも、ソファ−の上にニンジンを置き、裸でその上に勢いよく座ってみて下さい。同じようなことが起こる確率はどのくらいなものか、はなはだ興味があるのですが。