ちょっとしたご縁で最近あるお寺に出向くことが多くなった。僕自身、特定の宗教に凝っているわけではないし、何かの御利益を期待して、というわけでもない。一度フリーターを経験して以来、好奇心旺盛となってしまった僕は『仏教』の教えというものに大変感心を持ってしまったのである。
仏教と聞くといつも線香臭いイメージがつきまとっている。でもその教えの根本は人生の生き方へのヒントであり、僕が当初思っていたよりはずっと合理的で現実的なのであった。
ある日のこと、そのお寺で僕は御住職と知人のAさんと話をする機会を得た。その中で大変に印象深いものがあったので紹介したい。
穏やかなお顔つきの御住職は次のように僕にお話ししてくださった。柔和な話し方とは裏腹にその内容は大変に厳しいものだった。『最近は人々の心がすさみつつあります。あらゆるものの規律が乱れ、価値観の相違を言い訳に自由とわがままを混同します。経済のバブルはとうに弾けましたが、心のバブルは今まさに弾けようとしています。今の状態はこのままでは決して良くはならないでしょう。いったん戦場の後の焼け野原を経験しなければ立ち直ることは難しいでしょう。お金もただの紙切れになってしまうような時代はきっとそう遠くはないです。だから心をしっかりと鍛えること、自分の生き方に筋を通す、あるいは心に1本の丈夫な支柱を立てることが大切になってくると思うのです。』
続けて知人のAさんが言う。『最近は悩みや迷いを理由に信仰をする人が多い。でも大半は、信仰を始めても一向に生活が楽にならない、心の悩みが解決しない、といってお寺を離れていく。いわゆる御利益信仰です。よく受験生が合格祈願を神社でしますけど、いったん合格してしまったらもうすでに感謝の気持ちを忘れている。お礼参りをする割合はかなり低いでしょう。そのような気持ちの延長で信仰を始める人が何と多いことか。先日も私の知り合いが、信仰を始めても何も変わらないと文句を私に言ってきましたが、私は怒鳴り返しました。信仰は何のためにするのか。それは子孫を守るためだ。子孫を守るためにはまず家族を守らなければならない。次に他人を守らなくてはならない。お前はその気持ちで信仰を行なって来たのか。自分だけを守って他のことを考えないような生き方しかできない奴に信仰する価値などない。』
大変に厳しい言葉だ。信仰の本義は子孫を守ること。なるほど、だから家族を守るし、他人を大切にするし、環境を守ろうと努めるのだ。A氏は自分本位の教義を持つ宗教はニセモノだ、とも言われた。
再び御住職がおっしゃった。『つい最近まで近くの病院に入院していたのですが、患者の扱いがあまりにひどい。受付、看護婦は人の目を見てものを話さない。医者はただ患者をベッドに縛りつけておくだけでほとんど声さえもかけてくれない。自分は死ぬためにこの病院へやってきたのだろうか、と錯覚しましたよ。医療事故が多発する時代ですが、要は医療者の心の問題です。世の中の流れの一端を見ることが出来ました。』
楽しい雑談の中にも考えさせられることが数多くあり、大変に充実した時間を過ごすことができた。お寺と聞くと、葬式とか墓だとかちょっとマイナーなイメージがあるのだけれども、実はこういった感じで、あけっぴろげにおしゃべりできるコミュニケーションの場でもある。職業、年齢層の異なる人たちのふれあいの場になっているわけだ。
今回、御住職に仏教についてのお話をうかがうことはできなかったが、それは次回の楽しみとしておこう。
最後にA氏の言葉で、僕がとても感銘を受けたものを記して今回のエッセイの締めとしたい。正しいとか間違っているとか、そんなことに関係なく胸に染み入ったものだ。
『あなたはまだまだお若いから、これからの人生の設計を次のように考えたらいかがでしょうか。60歳になった時に充実した幸せな生活を送れるようにするんです。つまり、今の苦労は60過ぎて楽しく過ごすための準備なのですよ。世の中を見渡すと、なんと悲惨な老後を送っている人が多いことか。経済面でも健康面でも60歳を超えた時の自分を思い浮かべながら生活してごらんなさい。』