今年の9月7日に僕の祖母が亡くなった。6月に体調を崩して入院、十二指腸の癌が見つかり翌7月に 手術。手術は成功だったけれども、たぶん命のエネルギーを使い果たしてしまったのだろう。82歳で力尽きてしまった。
祖母の死をきっかけに僕はある決意をした。医療に携わる者の一人として、ある決意をしたのである。でもその話をする前にちょっと前置きをしたい。今日のエッセイは是非とも医療従事者の方に読んでいただき、一緒に考えてもらいたいものだ。
当たり前の話で恐縮だが、日々僕らは病院で患者さんを診る。そして外来で診察や検査をし、病棟では入院患者さんの治療に携わる。さらに当然のことだが、病気の良くなった入院患者さんは表玄関から笑顔で帰っていかれるし、不幸にして亡くなった方は寒々しい裏玄関で僕らのお見送りを受けることになるのだ。言ってみればそれが僕らの日常である。
さて僕は数日祖母のベッドに付き添った。今回、医者になって初めて入院患者の家族の一人として、病院に関わるという経験をしたことになる。
祖母の闘病に付き添って、まず第一に僕が感じたことは看病の辛さである。この度の経験で、付き添いの者は二重の苦しみを受けることになるのだということをいやというほど痛感した。一つは、肉体的な辛さである。食事を介助したり、体交(床擦れができないように時間ごとに体の向きを変えること。)をしたり、薬を飲ませたり、口をゆすがせたり、おむつをチェックしたりと付き添っている間中、常に自分の体を使わなくてはならない。患者として入院している家族のそばにただいればよい、というような簡単なものではないのだ。そして次に感じるのは精神的な辛さである。看病というものはそもそも気の抜けないものである。精神的にたいそう疲れるものなのだ。その上さらに入院している身内の苦しみの訴えを聞くことにでもなれば、家族としてこれほど辛いことはない。
ここで僕は猛反省したのである。看病という経験を通じ、僕は今まで入院患者さんのご家族への思いやりを忘れていたことに気付いたのであった。どうして今まで一言でもよいから、最低一日に一回でもよいから付き添いの家族に言葉をかけるという習慣を身につけてこなかったのだろう。付き添い者は孤独なのだ。
次に、病院スタッフの対応の一つ一つに心がこもっているか否かということなんて案外簡単に見抜けるものだということを感じた。病室に来て患者の目を見ずに話をするスタッフはたいていの場合事務的なやりとりに終始する。人間って不思議なもので、病気をし入院すると次第に神経がとぎすまされていくようだ。だからこそ病院のスタッフの言動や態度に一喜一憂する。祖母は廊下での看護婦さん同士の世間話を聞き、嫌がっていた。あれは僕が聞いても大変に聞き苦しい。もっと気を使って接してください、と願わんばかりだった。
今、民間病院、公立病院、大学病院を問わず、接遇(患者さん方への接し方)は共通の感心事項である。病院の中には外部から講師を招いて接遇についての研修をするところもあるらしい。また、医療事故が日常化してきており、医療人のモラルも問われてきつつある。でも僕が思うにそこに難しい理屈は一切必要無く、結局は入院患者さんが自分の大切な家族であった時、その家族として何をしてもらいたいか、何に気を使って欲しいかを考え実行する。ただそれだけでよいのではないのか。
ある病院がよい病院か悪い病院か、それを見分けることはとても簡単だ。職員が自分の家族を安心して入院させる病院であればよい病院だろう。当然その逆の結果も明白だ。
祖母の死をきっかけにした決意、それは一言でいえば、患者さん一人一人を自分の大切な家族と思うことだ。そう思えばいい加減な対応はしないだろうし、薬の飲ませ間違いもないだろう。
冒頭に書いたけれど、何も考えなければ僕らはともすると日常の仕事を単純にくり返しているだけという錯覚に陥ることだろうと思う。恐らくその中で人の生や死に接することの感動が薄れていき、慣れだけで仕事をこなしていくだけになってしまうのだろう。
話は変わるけど、僕は一期一会という言葉は家族にも当てはまると思う。仮通夜でばあちゃんの死に顔見ながら、お互い生まれ変わってももう一回ばあちゃんと孫の関係になろうな、話しかけた。