しかしまあ我が人生よくスベッたスベッた。ある時は受験でスベり、ある時は恋愛でスベり、人前でもスベりまくって恥ずかしい思いをずいぶんと経験したもんだ。今回は僕のスベッた話をいたしましょう。
5年前の事です。救命救急士の制度が始まったころ、救急病院の医者が救急隊の方々に講議を依頼される機会が多くありました。脳血管が専門の僕の上司も講師として講議に行くことになっておりました。
ところがです。講議を依頼されていた当日に急患が入って僕の上司が病院を抜けられなくなり、何故か講議は僕が担当することになってしまったのです。おいおい、聞いてないよー。
さて大変です。心の準備はできていないし、何よりも講議の内容を予習していない。上司が言うには、『なあに。用語の定義を説明すればよいよ。あまりに専門的に詳しくなり過ぎなくてもいいから。』だって。まあ、患者さん方には何度か勉強会で講師をさせていただいたから、あんな感じで話せばいいんだろうな。大学の講議みたいな感じになるのかな。と思った自分は本当に甘かったのであります。
さて、ご丁寧に市の職員の方が車で迎えに来て下さり、いざ会場へ。自分に与えられた時間は50分。意識障害について講議をしなければならない。講師室で講議内容のカンニングペーパーを作りながら待機。やがてチャイムが鳴り職員の方が講義室へ案内してくれた。さあこれからが大変なのである。
講義室にはざっと80人くらいの救急隊の方がおられた。僕が講義室に入った途端、一番前の隊員の方がデカい声で『起立ッ!』と気合いを入れた。僕はびっくりして後ずさりしたよ。本当に。しかも80人全員が全く動作を乱さず、シャキッと立ち上がり、『礼』の号令とともに一斉に頭を下げたときたもんだ。この段階で僕の頭の中は真っ白になってしまった。だって、それまで経験した患者さん方の勉強会って結構のんびりしていたし、大学の講議なんてあっちこっちでおしゃべりが聞こえていたもんね。こんな気合いの入った起立、礼なんて初めてだったんです。しかも動作一つ一つに音がしない。ふつうガタガタ音がするもんね。僕にしてみればちょっと異様な雰囲気の中、講議を始めることとなったわけです。
『えー。本日私は意識障害についてお話をさせていただくわけですが、....... 』と講議を始めたのですが、まあ聞いて下さい。救急隊の方々の真剣なこと! まず、講師である僕の方を全員がじっと見ている。いや、見ていると言うよりにらんでいる。皆、真剣なのです。殺気すら感じましたよ。想像してみて下さい。体力バリバリの男性80人が背筋を伸ばし、こちらをにらみ、しゃべる一言一言を懸命にノートに書き写している。こちらの方から視線をそらしてしまうという有り様でした。当然居眠りする人とか雑談に興じる人はいません。高校生の頃、授業態度が悪いとよく先生が叱っていたけど、こんな雰囲気だったらきっと先生もやりにくいと思うなあ。
最初は場違いなところにやって来てしまったもんだと心の中では半泣きの状態だったけれど、慣れとは恐ろしいもの。僕の悪い癖で次第に余計なことを考え出したのです。『いや、この方たちは本意でこんなに真面目にしているんじゃなかろう。うるさく厳しい上司がいて、このような授業態度を強制されているに違いない。かわいそうに。朝からこの調子だったらきっと疲れ切っているだろうなあ。僕がこの場にいるのも何かの縁だ。よしっ、軽い駄洒落で皆さんの心を少しなごませよう。』
このエッセイをお読みの皆さん、瞳孔は御存じですね? そうそう目のひとみのことです。これは暗いところでは大きく開き、明るいところでは小さく縮みます。光を当ててこの瞳が縮むことを我々は対光反射といいます。意識障害の患者さんの場合この瞳孔の観察はとても重要なのです。当然、救急隊の方々も必ず知っておらねばいかんわけ。
『意識障害の患者さんの瞳孔の観察はとても大切です。ぜひ知っておいてください。まずは瞳孔が開いている散瞳(さんどう)についてですが、...... 』 うん。調子よくいっとるぞ。よしそれでは作戦開始! 『今度は、瞳孔が縮む縮瞳(しゅくどう)です。この縮瞳が著しいのをピンポイント状の瞳孔と言います。あっ、ピンポイントと言ってもピンポイント増毛法のことじゃありませんケド。』 どうだっ! 笑えっ!
数秒の沈黙。あっさり玉砕。皆今まで通りこちらをにらんでいる。当然笑う人はなし。あれっ、この人たち今のギャグもノートに写しているのだろうか?
僕の安易なサービス精神は受講していた隊員の方の熱意の前にあまりにも無惨にスベッてコケたのであります。カッコわりー! 僕は顔を真っ赤にして講議を続けなければなりませんでした。
これで終わりかと思うでしょ。ところがまた僕はスベッてしまったのです。講議の時、胸元にコードレスマイクを付けたのですが、緊張と疲れのためか僕は講議が終わってもマイクを胸元に付けっぱなしで講師室に戻って来てしまったのです。しかもこんな独り言を言いながら。
『あーあ。何でこうなるのよ。しかしシャレが通じんのう。』